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zoom RSS パラオ戦没者合同慰霊祭 ( 1 )

<<   作成日時 : 2015/05/21 17:43   >>

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5月12日〜17日迄 ( 本当は16日までの予定だったんですが・・・) 栃木県護国神社主催のパラオ諸島戦没者慰霊祭に行ってまいりました。

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護国神社の稲宮司さんを中心に、宇都宮二荒山神社の若松禰宜さんと私がお手伝いという形で慰霊祭をご奉仕をさせて頂きました。

4月の8日、9日に天皇皇后両陛下も戦没者の慰霊の為にパラオを訪れ、その様子がテレビ等でも放映されておりましたので、ご覧になった方もいらっしゃると思います。

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パラオ諸島はマリアナ諸島等と共に、第一次世界大戦後にドイツの植民地から日本の委任統治領となり、日本統治の下、学校や病院等の各種インフラが整備され、多くの日本人が移住してリン鉱石採掘や農業、漁業、ボーキサイトの生産等で栄えていました。

大東亜戦争開戦前には、パラオ人の3倍近い日本人が居住していたそうです。

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昭和19年9月15日、日本軍約11,000名が守備するペリリュー島に、約18,000名の米軍が上陸し、続いて9月17日、日本軍1個大隊、約700名が守備するアンガウル島にも約10,000名の米軍が上陸しました。

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米軍が3日で占領する予定だったペリリュー島では、日本軍が洞窟陣地に籠って頑強に抵抗し、2ヶ月半に亘る激戦が繰り広げられました。

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米軍の当初の目的は、フィリピン諸島攻略支援の為の飛行場建設でしたが、日本軍の抵抗で占領に時間が掛かり過ぎてフィリピン攻略に間に合わず、結果、戦略的には無意味だったといわれています。

日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の米軍の圧倒的な軍事力の前に、戦闘が終局に達していた11月24日、生き残った日本将兵は、わずか60名足らずになっていました。

兵力や弾薬がほとんど底をついた為、司令部は玉砕を決定。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権次郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える 『 サクラ サクラ 』 の電文が送られ、翌朝にかけて根本甲子太郎大尉を中心とした55名の残存兵による突撃が行われました。

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この『 サクラ サクラ 』 の電文には 『 ペリリュー守備隊全員、桜の如く散った 』 という意味が込められています。

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しかしペリリュー島で壮絶な長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、島民には1人の犠牲者も出ませんでした。

それは日本軍が 『 ペリリュー島の住民を戦渦に巻き込んではならない 』 との指令を出し、戦闘前に強制退避させていた為です。

ペリリュー島の戦いが終わって島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣いたそうです。

米軍は日本兵の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを収容していったので、住民たちが日本兵の遺体を弔ったそうです。



毎日新聞社から出版された舩坂弘氏の著書『サクラサクラ』の中に、こんな話があります。

  
島に住むある老人が若い頃、他の若者たちと共に日本兵の陣地を作る手伝いをしたそうです。

しだいに日本兵たちとも仲良くなり、日本の歌を一緒に歌ったりもしました。

やがて戦況は日本に不利となり、何時米軍が上陸してもおかしくない状況になりました。

仲間たちと話し合った彼は、代表の者数人と共に日本の守備隊長の下を訪れ 『 自分たちも一緒に戦わせて欲しい 』 と願い出たそうです。

しかし、それを聞いた隊長は激高し 『 帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか 』 と叫んだそうです。

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。

見せかけだったのか。

裏切られた思いで、皆悔し涙を流したそうです。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りには来ませんでした。

村の若者たちは悄然と船に乗り込みました。

しかし船が島を離れた瞬間、日本兵が全員浜に走り出てきたそうです。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送ったそうです。

その中に笑顔で手を振る隊長の姿を見つけた時、彼は悟ったそうです。

あの時の言葉は、自分たちを救う為のものだったのだと。



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パラオの国旗には『青い太平洋に浮かぶ、黄色い月』という意味があります。

そして『太陽があってこそ月の輝きがある』という意味も込められています。

この国旗はアメリカからの独立に際して一般国民から公募した70数点の作品の中で、断トツの人気だったそうです。

月が中心から微妙にずれているのは『日本に敬意を表し、同じでは失礼だからわざとはずした』といわれています。

それほどまでに親日的なこの国に、日本は一度とてもひどい事をしました。

1995年10月1日、パラオでは独立一周年の記念式典が盛大に行われました。

各国の代表が振る色とりどりの国旗。

米国海兵隊の華やかなパレード。

そして各国元首からの祝電の数々。

しかし、その中に日本の国旗はありませんでした。

日本からの祝電も、最後まで届く事はありませんでした。

当時の日本の首相、村山富市氏は記念式典の招待を欠席。

代わりの者を出席させる事も無く、お祝いの言葉さえ送りませんでした。

独立を一緒に喜んでくれると思っていた日本の仕打ちに、パラオ国民はもちろん、パラオの初代大統領、ナカムラ大統領は、とても悲しみました。

村山氏に、どんな考えがあってお祝いのメッセージを送らなかったのかわかりませんが、一般常識からしても、たいへんに失礼な振る舞いだったと思います。

因みに10周年の際には当時の小泉首相が祝電を送っています。

昨年の20周年の際には、中根外務大臣政務官が式典に出席をしています。

以上パラオについてのお話を駆け足でさせて頂きましたが、次回からいよいよパラオでの慰霊祭の様子をお伝え致します。











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